早乙女 静香は、口唇を噛み締めた。泰造が彼女の肩に手を乗せる。「……兄さん」彼女の静かな声がそこに響いた。暫くして、彼女の前にあるドアが開いた。中から白衣を着た中年の男と、彼に付き添った同じく白衣の女性が出てきた。「先生っ」静香は彼に駆け寄った。
「今患者さんは寝ています。お静かにお願いします」
「あ、すみません。あの…それで、……」
「その事に関してですが、立ち話も何ですし私の診察室にてお話しましょう」
「……分かりました」
男――医師――の後ろに女――看護師――がつき、その後ろを静香と泰造は歩いた。この沈黙が嫌な気分にさせる静香は、やっぱりあの子を自分の目の届く先に置いておかなかったから…と後悔する。だがしれは後の祭りだ。事はもう起きてしまった。誰があの子――――の傷を抉り出したのか。それとも、凍らせておいた苦い記憶が解凍してしまったのか。静香には分からなかった。
階段を降りて、渡り廊下を使い隣の棟に移動する。そして幾段かの短い下階段を上る。その廊下の真ん中に、医師の診察室があった。
「此方へどうぞ」
「「失礼します」」
静香と泰造の声が重なる。医師に進められるがままに、手前のソファに二人は座った。看護師は途中のナースステーションで別れていた為、三人の気まずい空気が辺りを包んだ。
「まずは……どれから話をすればいいのか……」
沈黙を破ったのは医師だった。
「……どういう、事ですか?」
「話を進める前に、確認しておきたい事があります。答えて、頂けますか?」
「私達で答えられる範囲であれば」
「ではまず、さんの家庭環境について」
「父、母、の三人家族です。現在、ご両親は仕事の都合でアメリカに滞在中です。は、高校進学と同時に単身で日本に帰ってきました。今は、私が彼女の保護者を務めています」
「そうですか……では、少々お聞きしにくいのですが、彼女は虐待にあっていますか?」
「それはありえません! 何故そのような事を聞いてくるんですか!?」
「腕と背中の古傷、ご存知ですか」
「それは……あの子が中学時代プレイ中に作った傷です。シニアで選手をやっていて、背中から選手に体当たりをされたそうですから。腕の傷は先日の遠征で作ってしまったと本人から聞いています」
静香の瞳が驚きで見開かれるも、彼女は冷静に医師の質問に答えていく。
それから幾つかの質問があり、医師はようやく重たい口を開いた。
「今、 さんは自分の殻に閉じ篭ってしまっています。以前から過度のストレスを感じていたのでしょう。それが引き金となり、久しぶりに発作を起こしてしまった」
「先生、それはどういう事なの?」
泰造が口を開いた。医師は軽く頷く。
「簡単に言えば、過度のストレスを抱える事に身体が悲鳴を上げた、と言うことです。
だから彼女は自分の心を守る為に自分の中に閉じ篭ってしまった……医学的に見るとありえない事なのですが、そうとしか考えられません。彼女は、まだ十代ですし。その年頃は精神的にも不安定ですから」
「どうすれば、よくなるのですか?」
「彼女次第でしょう」
「――――ちゃんが……入院?」
「そうなの。ちょっとストレスがきちゃったみたいでね。――――過労よ」
厚木寮の監督室。
寿也は静香の前に立ち、それを聞いた。
「やっぱり一軍に移動させたのが悪かったのかしら…………とにかく、明日あたりに様子を見に行って貰って来ていいかしら?」
「分かりました」
「ごめんなさい。本当は行くつもりだったのだけれど、総監督に呼ばれちゃって……」
目を伏せて、静香は申し訳なさそうに言う。
「いえ…教えてくれて、ありがとうございます。では、明日の放課後の外出許可願いを書いてきます」
「あ、いいわそれは。私が許可します。私の個人的な事でもあるからね。正式な手順を踏まなくてもいいわ」
それは暗にお忍びで、と言っているように寿也は感じた。それは静香に何時もの覇気が無かったからなのかもしれない。静香自身がを一軍へと向かわせた。それが原因でが入院までしてしまったと言う負い目があるのだろうか。
監督室を退室した寿也は、その足で自室へと向かう。吾郎に言おうか。寿也は考える。
「(でも吾郎くんに言ったら他の人に言い触らしそうだし……)」
それは得策では無いだろう。彼は頭よりも手足が動くタイプだ。が入院した事が知られたら瞬く間にこの厚木寮に知れ渡るだろう。
「(黙っておこう)」
「佐藤君!」
「……大盛さん?」
「もう! カナエって呼んでって言ってるでしょぉ!」
恥ずかしがり屋さんめっ。
語尾にハートマークが付きそうなきゃぴきゃぴとした声で彼女――大盛 カナエ――は言った。どうしたの、と言いつつ寿也の腕にカナエ自身のそれを絡める。肘にカナエの柔らかい胸が当たる。普通の一般的な男だったらそれは喜ばしい感触かもしれない。だが、今の寿也にはそれが不快に感じた。いや、不快だった。
寿也はそれを表情に出さず、極自然に絡まった腕を解いた。カナエはぷぅと頬を膨らませた。
閉じられた瞳は未だ開かない。規則正しく上下する胸に、看護婦は息を吐いた。腕に刺された点滴が痛々しく見える。横たわった肢体は少しも動く事無く。
「どうしたのかしら、この子」
看護婦は眉根を寄せて言った。
あとがき
次から過去へヒロイン嬢の一人称で吹っ飛びます。ここまでくるの難産でした……。本来ならこれと前の話は一話で終わらす予定だったのに。長くなってしまった。過去編なのに! まだ過去行ってないよこの子!
(20090111)