020.変えられない空想世界

 千石 真人は焦っていた。それはもう、今までに無いくらい。つい先日に突然一軍レギュラーのマネジャーとなった彼女が全ての原因だろうか。榎本 直樹は彼女に少なからず好意を寄せているのを彼は知っている。
 それが突然現れた謎のアメリカ人と彼女が抱き合っているのだ。慌てて千石が榎本を見ると、彼の瞳は充血していた。

「(某漫画の登場人物じゃあるまいしいいいいいぃいぃぃぃぃぃいいい!)」

「“で、あたしに何か用でもあるんじゃないの?”」
「“無いに決まってるだろう”」
「“じゃあ降ろしてよ”」
「“嫌だ”」

「―――――…千石、とあの男…何を話しているんだ?」
「……用があるのか…みたいな事を話して「、」」

「直樹、どしたの?
 ちょっと、ほんとに降ろしてよ」
「お前が飛びついてきたんだろ」
「飛びついたけどそれが何か問題でも」
「このまま、部屋に連れて帰ろうかな「黙れセクハラアアアアァァァァアアアァァ!!!!!」」

 の魂込めたアッパーが、ジュニアの顎にクリーンヒットした。「グハァ!」と言いながらジュニアはを支えていた腕を離す。は、器用に着地した。
 運動神経がいいな、と呟いた千石の台詞など聞かず、榎本はに駆け寄り肩を掴んだ。「大丈夫か」と。その様子はまるで狼魔の手から赤ずきんを救い出した猟師のようだった(と、本人が言うのだが彼自身の瞳が赤く充血している為何も知らないにとって見たらジュニアよりも恐ろしいというか貞操の危機を感じた)。

 ムッとなったジュニアが榎本の手を払いのけるように、の背中から抱きかかえる。

「「(んだよコイツ…)」」

 両者が同じ気持ちになっているなど、誰も知らなかった。
 眉間に軽く皺を寄せながらも、は背中にジュニア、前に榎本とまるでライオンと虎の争いをじっと見ている(余談だが、千石と榎本はカエルと蛇だ)。

「…アンタさぁ、さっきから何?」

 ジュニアが流暢な日本語で言った。固まるを視界に、ジュニアは榎本を見て口角をクッと上げた。

「コイツ、俺の女なんだけど」
「ジュニ んっ…?!」

 驚いたが顔を上げる。その勢いに彼女の顎をクイっと更に持ち上げたジュニア。はジュニアが近くなり自分の口唇に何か暖かいものが触れたと自覚した時にはのそれとジュニアのそれが完璧にくっ付いていた時だった。唖然となる榎本を横目で笑うように見たジュニアは、驚きに目を見開いているだろうを見て心の中で笑った。
 のそれとジュニアのそれが触れ合っていた時間。それは数秒の事だったのだが、本人、榎本にとってみればそれはとても長い時間だと感じていた。










 結局、がジュニアから離れたのはそれを目撃していたカミューがはっと我に返った五秒後だった。ジュニアからを取り上げ(まるで猫のように)、放心するの頭をよしよしと撫で、背中を押してはその場を離れたのだった。

「“、アンタ大丈夫なのっていうか大丈夫じゃないよねぇ?”」
「“―――――………”」
「“(ジュニアったら、何してくれんのよーっこの子恋愛は超っていうかベリーっていうか本当にメチャメチャ疎いのに!っていうか超もベリーも意味は似たようなもんじゃん!!!)
 ―――――そこの店に入るよ”」

 カランカランとドアに設置された鈴を鳴らして、とカミューは店内に入った。そして、適用な椅子に座る。ウエイトレスが側まで来た。どうやら、その店は喫茶店らしい。「注文は?」とウエイトレスが尋ねる。

「“アイスのロイミーを二つ”」

 ウエイトレスが「はい」と立ち去ると、カミューはに向かって丸いものをペッと投げた(大方練習場からパクって来たのだろう、それはボールだ)。あだ、と現実逃避の世界から浮上したはカミューに「なに」と言う。
 コン、と目の前に当たって落ちてきたボールを力なさげに拾った。「あんね、」と口を開いた。日本語で。

「あたし…あの事があってから、別れたんだ。ジュニアと」
「“英語で喋れ。アタシそこまで日本語出来るわけじゃないから”」

「“ごめん。
 あたしね、あの事があってから、別れてたんだよ”」
「“知ってる。日本に帰るのも、言わなかったしね誰にも”」
「“こわ、かったんだ。今は、まだそれしか言えれない。だけど…いつか、絶対話すから”」
「“分かってる。
 どうする?アタシんちに今日は泊まる?”」
「“ううん、ホテルに帰るよ。一応、海堂の名前で来てるから、あたし”」

「“アイスロイヤルミルクティお待たせしました”」
「“あぁ、ありがと”」

 ぽてーと、外を見るにカミューは溜め息を吐く。

「“今まで散々キスなんてやってたのに…アンタ、どうしたのよ”」
「“うん………日本で、友達にもキスとか、やってなかったから。びっくりしてさ”」
「“それだけじゃないでしょ、さっさと白状なさい”」

「“ごめん、時間やばいから帰る”」

「“はぁ?ちょっと、何言ってんの!?”」
「“まだ話せれないから逃げるに決まってるじゃん!”」

 はそう言うと、じゅるるるとミルクティーを一気飲みして、コインを机に置いて立ち上がる。そして店の中なのに走り出した。「ちょ!」とカミューが立ち上がる頃には店の外――ちょうど二人が座っていた真ん前――を全力疾走していた。
 カミューは何かを右手に握り締めて、ふるふると拳を震えさせた。

「“これって日本円じゃんかーーーーーーーーー!!!!!
 (っていうかアタシ突っ込みを入れるべき所間違えた!)”」










 その日の夜。は明日の予定の確認の為ミーティングに参加していた(選手はシャワーを浴びたり寝たりと寛いでいた)。江頭の聞くに堪えない話を右耳から左耳へと聞き流しつつ、は昼間の出来事を思い出していた。
 『何故?』ばかりが浮かんでは、また消える。自分の中では既に終わったことになっている事を蒸し返されて。あの時言った筈だった。

 ―――今、アンタの近くに居るとあたしは野球もアンタも嫌いになりそう。我が儘だと思う。それでも、少しでも、あたしを想ってくれているんだったら、お願い………―――

 なんて、都合のいい。別れ方。これじゃあ相手は何も言えないじゃないか。は微かにくっと口唇を歪めて笑う。自嘲的な笑みだった。

「―――――以上で、ミーティングを終了する」
「お疲れ様です」「お疲れさまです」

 江頭そう言うと、トレーナー達は軽く会釈して部屋を出て行く。も、同じようにして出て行った。
 白いプリント――書類――を小脇に抱えて、廊下を歩く。なんだか頭がすっきりしない。シャワーでも浴びようかと思った時に「、」と名前を呼ばれた。
 この声は、と振り返ると首にタオルをかけた榎本が立っていた。軽く頬が火照っている。

「シャワー、浴びたんだね」
「まぁね。今日はまだ時差ぼけがあるから早く寝ようと思って」
「逆に眠れないかもしれないよ?」
「その時はが添い寝してくれるかい」
「百年早い」

 厳しいお言葉で、と榎本は苦笑する。

「今日、君に抱きついたあの男って誰?」
「抱きついたっていうかあたしがハグしただけ……って、ジュニアの事?」
「ジュニア?」
「そう、メジャーリーガー ジョー・ギブソンの息子だからジュニア。ま、あたしから見ればギブソンとジュニアは違うから、あんまりジュニアって言いたくないんだけどね。なんか嫌じゃん、彼は彼なのに」
「メジャーリーガーである父親の影が色濃く見えるから?」
「うん、そう」
「それは、そういう覚悟があるからこそ父親と同じ野球が出来るんじゃないの?」
「らしいね。前に聞いたことあって、そんな感じの返事が来たから」

、」
「なに?」
「始めてみる顔だね。君、男の話でそんな顔が出来たんだね。もしかして、彼、元彼だったりしたとか。
 ―――――だったら余計気に食わない」
「え…あたしそんな変な顔してる!?っていうか直樹さっきなんて言ったのさ」
「なんにも言ってないけど。、疲れてるんじゃないの、日本からずっと肩に力入れてるでしょ。よかったらこれ、飲みなよ。スポーツ飲料だけど」

 はい、と榎本は柔らかく微笑んで手の中をペットボトルをに差し出す。は「ありがとう」と言い受け取った。まだ未開封のキャップ部分を捻って開ける。そしてコクリと喉を鳴らして一口含んだ。
 湿った口唇を半開きにして「ふぅー」と溜め息を吐いた。肩を一回転させると、以外を凝っていることに気付いた。

「うっわ、肩ガチガチー…直樹の言う通りだねぇ。知らない内に緊張とか、してたのかも。今日はしっかりほぐさなきゃ」
「そうするといいよ、なんから手伝うよって言いたいけれどセクハラって言われたくないから止めておくよ」
「あはは、何それ。前、一緒に柔軟したくせにー」
「それはそれ、これはこれ」

「じゃあ、そういう事にしといてあげようじゃないの。
 んじゃま、あたしもそろそろ休むとするわ。明日からミッチリ調整だから、覚悟しとけよー」
「お手柔らかに、お願いしたいなぁ」
「それはその時の機嫌しだいかなぁ。おやすみー」
「おやすみ、

 二人はひらひらと手を振って別れた。そして部屋に戻ったは、シャワーで身体を洗い流し湿った髪の毛を乾かさずに寝た(次の日の朝、どうなっていたかというのは言うまでも無い)。

あとがき

なんだか、うわぁ…って感じ。この辺りはちょっとしたスランプだったんですよね、確か。っていうか寿也が出て来ないからキーボード叩くのが進まなかったような。やっぱり寿也は必要です!

(20080505)