015.雨も無いのに青傘

 エントランスに入ると、側のソファーに寿也と吾郎が座っているのが見えた。

「あ、おかえり。ちゃん」
「お前帰ってくるのおせぇよ」

「仕方ないじゃない、この子、実習の報告書書くのに手間取っちゃったんだから」
「あ、早乙女トレーナー」
「今日はこの子疲れてるみたいなの。色々と押し付けたら駄目だからね」
「お前ー体力無いのなー」

「吾郎くん」
「あんだよ寿」
「ほんとにちゃん疲れてるみたいだから、ね?」
「ありがと寿也。悪いけど、あたし部屋戻るわ。静香さん、泰造さんありがとうございました」

 へにょ、と笑ってはふらふらと歩き出した。ゆっくりと階段を上り、部屋の前まで行くと人影があるのに気付いた。長身で、髪の毛が少しうねっている。影のシルエットから直ぐさま誰か分かる。薬師寺だ。

「お前、帰ってたのか」
「うん、さっき」
「何かあったのか?様子が変だぞ」
「ちょっと疲れてて」

「飯は?」
「あんま欲しくないから、いらない」
「簡単なもの作ってもらってくる」

 くるりと踵を返して歩き出した薬師寺の背中には言う。

「いいよ、食欲無いからさ」
「少しでも食べろ。倒れるぞ」

 振り向かずに、歩いたまま薬師寺はに返した。このままでは本当に食堂で作って貰って来るだろう(薬師寺本人が作る事は考えられない)。
 はポケットから鍵を出して開錠する。ガチャリとドアを開けて、部屋に入る。
 ベッドの側に鞄を放り投げて、制服のままベッドに転ぶ(今のに制服がシワだらけになるとは考えられなかった)。

「どうして…」

 どうして。今更。なんで。あたしは。どんな風に利用されようとしているのだろう。あの人は何を考えているのだろう。ついこの間、吾郎の事があったばかりなのに。

「あたしは…金の卵を産むガチョウにはなりたくないよ」

 それでも惹かれる自分が居るのだ。
 それが嫌になる。

 そのまま、は五分ほどベッドで寝転んでいた。
隣の部屋のドアが開く音がした。静香が部屋に戻ったのだ。ぼそぼそとだが、会話も聞こえる。「……で、……った?」「それが…………で」「そう…………ね」「……も…………のよ」耳を澄ましてもこれくらいしか聞き取れない。これ以上聞いても無駄だ、とは思い寝返りを打つ。スカートがめくれたのが分かったのだが、直すのが面倒だったのでそのままにしておくことにした。










 パッと部屋の電気がついた。眩しくては思わず腕で覆いながら目を細める。

「だれ」
「俺。お前スカート捲れてる」
「知ってる。ノックしてないのに勝手に入って来ないでよ」
「何回やっても出て来ないからだろう。俺が知るか」
「……やっくんのへんたい」
「るせえ」

 小皿に不恰好なおにぎりを乗せて、薬師寺は部屋に入って来た(厚木寮の面子は男女の性別で「あーだこーだ」と言わないため、基本的に男女間でも何でもありなのだ)(そして自然とその境界線を皆分かっている)(春先からずっと一緒に生活しているため家族みたいになっているから、というのも一つの理由だ)。

「やっくんの手作り?」
「食堂の人、俺達の後片付けで忙しそうだったんだよ」
「この時間だもんね。というか、おにぎり作れたんだ」
「馬鹿にしてるのか」
「うそ嘘。だって、家事とかしてるイメージ無くってさ」
「こう見えて俺は綺麗好きだ」
「うん、知ってるよ」

「とりあえず、一口でいいから食え」
「……折角作ってくれたんだし、食べなきゃ駄目でしょ。これは」

 はベッドの上で座りなおし、薬師寺に椅子を勧める。

「で、何があった?」
「帰る前に、江頭に呼び出された」
「江頭に?」
「うん。やっくんだから言うけど、誰にも言わないでくれる?」
「俺が口軽そうに見えるか」
「ううん。
 簡潔に言うと江頭に呼び出されて、一軍マネージャーになって今度の海外遠征について来いって言われたんだ。二軍には新しいマネージャーを入れるから遠慮なく一軍について行って来いって。多分、ついて行ったら来年の壮行試合まで厚木には帰れないと思う」
「ってか厚木には帰ってこれねぇだろう。
 お前、二軍マネージャーでいいならってって言ってくれたから此処来たんじゃねぇの?」
「その通り」
「なんで一軍に?」
「さぁ、あたしにも分からない」

 おにぎりを食べながら、は首を傾げる。「やっくん、お茶取って」とは机の上のペットボトルを指差す。薬師寺は黙ってそれを取り、に渡した。

は、どう思っているんだ?」
「へ、あたし?」
「お前以外に誰が居るんだよ」
「そっか。あたしはね、正直この話を受けたいって思ってる。でも、受けたくないとも思っている。だってそうじゃん?受けたら今まで以上に実践的なトレーナーの勉強が出来る。だけど、厚木の皆と別れる事になる。それは、嫌なんだ」
「まるで子供だな」
「いいよ、子供で。あたしは素直な聞き分けのいい子じゃないから」
「それは言えてるな」
「それ酷い。
 ねぇ、薬師寺。あたしは、どうしたらいいんだと思う?江頭の事だから、有無を言わせないやり方をしてきたらどうしようもないよ。でも、でもね」
「俺達と離れたくないんだろう?」

 薬師寺がそう言うと、はコクリと頷く。眉を寄せて、俯くに薬師寺は極力優しい声色で話すように心がけながら様子を見る。
 迷っている。あのが。そしてこんなを薬師寺は始めて見たのだった。

「どうしよう、やっくん。あたし、どうしたらいいかなぁ…」
「そりゃ、お前の事なんだし、お前の好きなようにしろって」
「どっちかなんて選べれない」
「優柔不断」
「薬師寺に取ったら、プロ入りする時に横浜か巨仁か選べっていうモンなんだよ」
「俺は東武がいい」
「あっそ」

 あっさりと「どうでもいい」と言う薬師寺には「ケッ」と言いながらお茶を口に含む。シリアス一直線だった雰囲気が一気にギャグになった。










 そして「眠いから寝る」と言って自分の部屋に帰って行く薬師寺には小さく「ありがとう」と言った。薬師寺はコツンとの額にでこピンをし「お前のテンション低かったら、気持ち悪いだろ」と言ってドアを閉めた。

「ちょっと、テンション低かったら気持ち悪いて…」

 それはそれで、ある意味ショックだわー、と言いながらは苦笑した。話す前よりかは、幾分顔色が良くなっていた。
 もう、迷っていないと言ったら嘘になる。だが、スッキリした。江頭はどんな手を使ってでもを一軍マネージャーに仕立てると言う事が分かっているだけでもいい。

ありがと、薬師寺。

 音には出さないが、こうして聞いてくれるだけでもいい時があるのだ。無理に答えを聞かなくても、これである程度の気持ちの整理は出来た。後はこれを自分の中で消化するだけだ。
 うじうじ悩むのは止めよう、とは勢いよく立ち上がる。

「よし!風呂!」

 風呂に入ろうと、思い立った途端、は制服からジャージに着替えて大浴場へと向かった。今日は数少ない貸切の日だったのだ。普段から狭いシャワー室のにとっては週二日しかないこの日が楽しみで仕方なかった(今日は江頭の件があった為カレンダーを見るまですっかり忘れていた)。
 今日はジャグジー使えるかなぁ…と言いながらは部屋を出て行く。ルンルン気分で階段を下りれば三宅と泉が自販機でジュースを飲んでいた。

、どないしたん?なんかテンション変やで」
「うじうじと悩むのは止めようかと思って。それで開き直ったらさー、お風呂、今日はあたしの貸切日だったことに気付いてー」
「じゃあ、これから風呂か」
「うん、覘いたらぶっ殺す「誰がのペチャパイなんか見るか」」
「三宅、アンタ何処見てんの?泉はこんなのになっちゃ駄目かよー馬鹿が移る」
「あぁ、大丈夫だよ。移らせやしないから」
「あははー、頼もしいわー」

 泉の肩を叩きながら、は言う。叩かれた方の泉は少し痛そうだった。

「ってか、って悩みあったの?」
「なんかあたしは悩みの無い人間っぽいんだけど、その言い方」
「せやかて、そないな感じやとワイ等は思とたけどなぁ」
「あたしだって悩みはあるよー。
 三宅ったらそんなに練習ノルマ増やして欲しいのかなぁ?もー遠慮しないでハッキリ言ってくれたらよかったのに。大丈夫だいじょうぶ、三宅なら今以上のノルマを増やしても出来るよ」
「そんなん一言も、言ってないけど」
「るせぇ」
「(三宅の馬鹿…怒らせてどうするんだよ)」

 の血管が微かにヒクついているのを見て、泉はがっくりと内心項垂れた。どうして三宅は人を怒らせるような事が得意なのだろうか。いやそれとも元々が怒りっぽいだけなのか。泉はそう思いながら、少しずつ避難して行った。

あとがき

悩み多きお年頃。という事で。

(20080311)