014.深く沈んだ青に溶け

 所変わって此処は海堂高校図書室。は実習の報告書作成のため騒がしい図書室のある一角のテーブルを占領していた。机の上には、資料となる分厚い本が数冊所狭しと置かれていた。そして教科書を広げて、頭を抱えていた。
 腕時計は既に六時を回っている。報告書の空白欄は残り少なくなっていたが、まだ時間はかかりそうだ。静香には既に連絡を入れている為、時間的にはまだ余裕があるのだが提出時刻には余裕が無い。

「(野球部のデータちょっぱってやろうかな…っていうか、もうこれでいいか!)」

 十分だ、と思った瞬間にの手は片づけを始めていた。消しゴムのカスやら、プリントの束やらを一つにまとめ、借りていた蔵書はもとあった場所に返して行く。
 人の居た図書室と違って、廊下は冷え込んでいた。幾ら私立の学校とは言え、まだ廊下に暖房をつけられるまで予算が回らないのだ(というか、廊下にまで暖房は必要ないだろう)。
 職員室まで行くと、その手前で丁度クラスメイトが出てきた所だった。「あ、さん」と声をかけられる。

さんも、提出に?」
「え、あ、うん。そろそろ帰らないといけないし」
「そっか。バス、なんだよね?」
「ううん、バスはもう出てるから連絡して、迎えに来てもらうの」
「そっか。なんか、大変だね」
「慣れたら平気」
「そうなんだね。じゃあ、私、帰るね」
「お疲れ、また明日」
「うん、ばいばい」

 疲れた表情のクラスメイトは、ゆっくりと廊下を歩いて行く。はそれを横目で見ながら、職員室のドアをノックした。「失礼します」と一礼し、教師の名前を呼ぶ。先ほどのクラスメイトで教師が居る事を確認しているため、面倒だなと思いつつも「お時間よろしいでしょうか」と言うと、教師もアルバイトの接客マニュアルのように「大丈夫だ」と言った。
 教師に提出すると、は少し立ち止まりそれに目を通す教師を見る。

「今回も完璧だ」
「そうですか」
「それで、テニス部は考えてくれたのか?」
「だから前から言ってますけどあたしこう見えて実は野球部の特待生で入学したので他の運動部に入るのは無理なんですってば」
「…だろうな。まぁ気が向いたらお遊びでもいいから来てくれないか」
「気が向かないので無理ですね」
「そう決め付けるなよ」
「だってあたし、野球が大好きなんで」
「じゃなきゃ女子で野球特待やらねぇよな」
「だと思いますよ。話はもう終わりですよね、それじゃぁ失礼しました」
「ああ、気をつけて帰れよ」

さん、用事終わったかしら?」
「はい?」
「さっき野球部の江頭さんから電話があって、今から来て欲しいみたいですよ」
「え…江頭部長がですか?
 ……………分かりました。ありがとうございます」

 職員室から出ようとすると、事務局の女性がの近くまで来てそう言った。二軍マネージャーの自分に、一軍監督代理が何の用だろうと首を傾げる。野球部絡みの連絡なら、何時もは静香や泰造から聞いているのだ。珍しい。
 上層部からの呼び出しなら、シカトは出来ない。そう思いは携帯のボタンを押した。無音からプルルルと音が変わり、それは五コールで終わった。

?遅かったわねーもう校門まで来てるわよ?早く来なさい』
「静香さん、よく分からないんですけど、陰湿眼鏡から呼び出しを食らったのでもう少し待っててくれませんか?」
『江頭から?あたしそんなの一言も聞いてないでけど』
「さっき事務局の人からあたしも聞いたんで。一応、行って来ようかな、と思うんで」
『―――――分かったわ。なるべく早く終わらせるのよ?』
「勿論です」

 静香からは驚きの声と共に、溜め息が聞こえてくる。も若干疲れた声を発しながら「それじゃあ」と言って電話を切った。










 江頭は、野球部専用の寮内にある執務室でパソコン向かっていた。片方の手で電話の受話器を持ち、もう片方ではマウスを操作している。時折マウスからボールペンに移り、何かを走り書きしながら「ええ、分かりました」と言っている。
 二言三言、それが続くと、江頭は「それでは」と閉めて受話器を下ろした。

「待たせてすまないね」
「いえ。それよりも、二軍マネージャーのあたしを呼び出して、どうしたんですか」

「ああ、そうだったね。何から話そうか。
 話は長くなる。そこのソファーにかけたまえ」
「―――失礼します」

 クイッと眼鏡を上げる江頭はから、やり手の経営マンというオーラが伝わってくる。胡散臭いその雰囲気に早く帰りたいと思いながらは豪華なソファーに腰を下ろす。その後に続いて、江頭はの前に座った。

「まずは、これを見てくれたまえ」
「海外遠征……今度は、アメリカですか」
「そうだね。早乙女監督には私から話をつけておくから、君にはこの遠征に着いて行って貰いたいんだ」
「え?あたし、一軍のマネージャーじゃ無いんですけど」
「一軍には有能なトレーナーやコーチは居るんだが、マネージャーは居ないだろう?此処のマネージャーは君一人だと知っているだろう?」
「そりゃ、知ってますけど……今まではマネージャーが居なくても大丈夫だったじゃないですか。今更なんじゃ…」
くん、君は私に口答えするのかい?君が幾ら特待生で入学して成績優秀でも、私にはなんとも無いのだよ」
「拒否権…は無いんですね」
「そのような事は言っていないが?」
「………………」

「まぁ、それは頭に入れておいてくれ。
 もう一つ、これは君にとっても喜ばしい知らせだ」
「嬉しい知らせ?」
「マネージャーを一人、受け入れる事にしたのだ。
 これからは新しいマネージャーに二軍を任せて、君は短い期間だが一軍でマネージャーをして欲しい」
「新しいマネージャー……こんな中途半端な時期にですか?
 (っていうか全然嬉しくない!)」

「君のトレーナーとしての働きも、マネージメントの腕もこちらは買っているのだよ。君はスポーツトレーナーになるために海堂に来たのだろう?トレーナーコースの海外留学も狙っていると聞いている。だとしたらこれは君にとっては最高のチャンスじゃないのだろうか。これで結果を残せば、私だって胸を張って君の留学を推薦出来るのだよ。悪い話じゃないだろう、寧ろこれは喜ばしい事じゃないか」

 にっこりと微笑みながら江頭は言う。言われたは、衝撃を受けているのだが。それを顔に出さないよう必死でポーカーフェイスを保った(でもそれが出来て居ない為江頭にはバレバレであった)。

「話は以上だ。もう暗い、送らせよう」
「……………いえ、大丈夫です。早乙女監督に連絡を入れているので、直ぐそこまで来ている筈です」
「そうか。くん、いい返事を期待しているよ」
「…失礼、いたしました」

 今度は謀るような笑みだった。はゆっくりと一軍専用寮を出て行った。
 の小さな背中を、江頭は執務室から見詰めていた。

「(静香さんに、なんて言おう)」
「(これであの娘は一軍マネージャーになる。今以上によい環境であの娘を育て、海外留学に送り出せば、トレーナーコース入学のマネージャー志望の生徒が増える…なんたって、あの娘はあのの娘なのだから………茂野を看板にし海堂の印象を払拭させ、で実績を作る。完璧じゃないか!)」










!こっちよ!!!」

 校門を出ると、静香の声が耳に入った。顔を向けると、早乙女兄妹が居た。

「静香さん、泰造さん」
「江頭の話、長かったみたいね。疲れた顔してるわよ」
「ちょっと…あの空間がキツくて」

「静香もも、早く乗りなさいよ。夕飯食いっぱぐれるわよ」
「分かってるわよ兄さん。は、後ろね」
「はーい」

 助手席に乗ろうとしていた静香に言われなくても、は運転席の後ろに乗り込んでいた。
 後部座席のシートに埋もれて、は考える。こんな時期に何故、江頭は自分を一軍マネージャーにさせたいのか。どうして新しいマネージャーを入れると言ったのか(これでは使い捨てカメラみたいだ)。
 入学前、特待生で入学する事をあんなにも反対していたのが嘘のようだった。何か裏がある、そう思わずにはいられない。
 それに仮にも江頭にイエスと返事をして、静香を初めとする厚木の皆にはなんて言おう。

「(あたしも、まんざらじゃないって事なのかな。こうして考えるって)」
「随分と疲れたみたいね。今日は」
「仕方ないわ。行き成り実習であの子達を施術したんでしょ?」
「それもそうだけど、江頭が一番のダメージじゃないの」
「そうね」

「それで、。江頭はなんて?」
「…………………………二軍に新しいマネージャーを入れるって」
「…あたし、聞いてないわよ」
「みたいな事言ってましたよ。新しいマネージャーを入れるから、あたしは一軍に行けって言われました」
「はぁ!?何それ!」
の入学にあんなに反対していたのに、不思議ねぇ。考えを改めたのかしら?」
「例えそうであっても、あたしに一言あってもいいんじゃないの?っていうか何か臭うんだけど!」
「じゃあ、やっぱり、陰湿眼鏡が言い出した事なんですね…」

「返事は、したの?」
「いいえ」
「アナタが自分で考えて、一軍でマネージャーをするならアタシは何も言わないわ。でもね、よく考えてから答えを出してちょうだい。絶対に、裏があるわよ」
「あたしも、大体は兄さんと同じよ。でも、その答えを出すのはもう少し待ってくれないかしら?あたし、ちょっと動いてみるから」
「そうね、それがいいわ。分かった、?」
「―――――……………」
?」
「え、あ、はい。分かりましたー」
「「(大丈夫かしらこの子…)」」

 静香と泰造の話を右から左へ聞き流しながら、は外を見ていた。怪訝な顔で後部座席を振り向いた静香に、は取ってつけたような笑顔で返事をする。

「(予想以上な事を、江頭に言われたのね)」

あとがき

プロットでは、ここで江頭は出てこなかったんです(大汗)ということで、もうちょっと一年秋編は続きます。

(20080305)