「薫り付けもありますけど、気分を落ち着かせるためにブランデーを入れました」
「ふふっ、は気が利くのね。それじゃあ、簡潔に言ってもいいかしら」
紅茶を一口飲んで、静香は重たい口を開いた。
「あたしは昨夜、茂野くんに上から――総監督――退部勧告をしてもらうと言ったわ」
「…………………はい?」
「彼の野球スタイルは海堂を滅茶苦茶にするから」
「…それで、昨日から今朝にかけてあんなに騒がしかったんですか?」
「そうよ。五月蝿くしてごめんなさいね。だって、茂野くんったらどうしても退部になりたくないようなのよ。勝手に寮を抜け出して総監督に会いに行こうとしてたのよ」
「吾郎…ったく。アイツは小学生かっての」
「で、江頭に目を付けられた」
「江頭って、あの、元経営コンサルタントの。で、今一軍の監督代理の、あの陰湿眼鏡?」
「そいつ以外に誰が居るのよ」
「それって、ヤバくないですか?」
「えぇ。勿論。茂野くんがあの本田選手の息子であり、茂野選手の義息子って言うのは中学校から来た調査書と海堂が調べた調書に経歴があるから上の人は一通り目を付けているわ」
「それって…あたしもですか?」
「の場合、中学は日本じゃないからそこまで詳しくは調べて無いわ。で、話を戻すわよ」
「あ、ごめんなさい」
「江頭は茂野くんを商品に仕立てるつもりよ。
彼の野球スタイル、そして彼自身の利用性を考えてあたしは彼には退部…いえ、海堂から出て行って欲しいと思っているわ……浮かない顔ね」
「当たり前じゃないですか。折角、苦労して海堂入ったのに…大人の身勝手な理由で辞めろだなんて!寿也だって、やっと吾郎とバッテリー組めるようになったのに!そんなのってあんまりですよ!!」
「分かっているわ、でも分かってちょうだい。茂野くんは海堂のマニュアルに染まってはいけないのよ」
「静香さん!」
「矛盾しているって事くらいあたしにも分かっているわ。でも、守りたかったのよ!一人の指導者として」
「それで、辞めろって事ですか?それ以外になにか策はあるんじゃないんですか!?そんなのって、そんなのって…あんまりです!!!なんで、なんでそれをあたしに言うんですか!」
「貴女が茂野くんの幼馴染だからよ。きっと、彼の事よ。出て行く時は何も言わずに行くわ。
覚悟を、してちょうだい」
「ずっと…ずっと待ってたのに!吾郎と寿也と三人で野球するのっ!
あたしはもう満足に投げられない、何時か身体が使い物にならなくなるかもしれない、だからあたしは二人が怪我をしてもいいように、あたしみたいにならないようにトレーナーになるって決めたのに!静香さんはそんなあたしの決意を無駄にするんですかっ!!」
「は、彼の野球が彼の野球ではなくなるのと、自分の自己満足。どちらを優先すべきかは分かってるはずよ。こんな時だけ子供のように駄々を捏ねないで」
「…大人の考えなんて理解出来ません!」
「理解してちょうだい。、貴女なら分かってくれる筈よ」
「そんなの、分かりたくありません」
は、そう涙ぐんで言うと、席を立った。「失礼しました」と言うと乱雑に部屋を出て行く。バタンと閉じられた向こうから、大きな靴音が響いた。
授業に出る気にならなくなったは、そのまま野球部専用校舎の裏手に回った。人目につかないその場所は、木々が茂ってちょうどいい目晦ましになっていた。
スカートに砂がつくのも気にしないで、はとある木を背もたれにして座った。真一文字に結んだ口唇が、痺れて痛かった。人目に付かないと言う事もあり、は足を引き寄せ体育座りになる。膝に額をくっ付けるような体制になり、思わず声が漏れた。
くぐもった声で「ふぇ」と出た声。それが合図のように、鼻を啜る音と嗚咽の混じった声が静寂を遮った。
また、一緒に三人で野球が出来ると思っていた。
マニュアル野球は好きになれないが、此処だと簡単に甲子園も連覇出来るだろう。
自身もトレーナーとして、野球に関わることが出来る。
三年間は、それが出来ると思っていた。
それがどういう事だろうか。売り込む事しかない頭にない権力馬鹿な大人のせいで、いとも簡単に崩れ落ちた。静香の言う通り、確かに海堂の野球は吾郎の肌には合わないと分かっている(その性格もマニュアルにはそぐわない)。
だが何故か、それを認められない。駄々を捏ねてしまう。マネージャーとして幼馴染として、吾郎が海堂を出て行く時は笑顔で見送ってやれ、と静香は言いたいのだろう。覚悟があるからこそ、は笑って彼を送り出せると静香は思っているから。
それでも。
「あたしは三人がいい…っ!」
三人。吾郎の野球。二つの天秤はあまりにも同じ質量に近すぎたのだ。どちらかなんて、には選べれない。どちらも大切なものだから。
『また、さんにんで、やきゅう、しようよ!やくそく!』
昔、吾郎が引越しをする時に言った言葉が蘇った。あれから何度その約束を繰り返しただろう。次に再会した時は吾郎とは敵同士だった。そのまま吾郎は福岡へ引越し、は渡米をしてしまった為、その約束は延びに延びて軽く十年の月日を巡って果たされようとしていたのだ。そう簡単には諦められない。
しかしマニュアル野球に染まってしまうのはもっと嫌だ。此処に居れば此処の指導方針ゆえに否応無しにマニュアル野球に染まってしまう。そして、江頭の存在。
海堂を立て直す為にと呼ばれた江頭にとって、吾郎は金の卵を産むガチョウだ。江頭の策略に嵌ったら何をされるか検討も付かない。
「(どうしよう…たすけて)」
たすけて、としや。
厚木寮の、監督室がノックも無しに荒々しく開けられた。この時間帯に、居る人間は彼女以外に一人しか居ない。
静香は、乱暴に入って来た泰造に溜め息を吐きながら言った。「入る時はノックしてって、言ってるでしょ兄さん」と。
「が、授業に出ていないみたいね」
「えぇ、そうね」
「アタシは朝からあの子を見ていないからよく分からないけど、昨日見る限りでは体調不良もなかった筈よ」
「そうね、あの子は体調管理もしっかりしてるわ」
「…貴女、知ってるわね」
「じゃないと此処まで冷静にはなれないわよ」
「あの子に何を言ったのかしら」
「昨日から今日にかけて起こった事と、あたしが思ってる事を全て話しただけよ」
さらっと静香が言った為、泰造は理解するのに数秒かかった。きっかり数秒後、パソコンの画面を向いたままカタカタとキーボードを叩く静香を、泰造は黙ってみる。
暫くの間沈黙が続いた。背中に突き刺さる視線の耐え切れなくなり、静香は椅子ごと振り返った。
「兄さん、まだ何か用でも?」
「やっとこっちを向いたわね、静香。
貴女の思ってること、全て話してはどう言ってた?」
「……………」
「言いなさい」
「………あんまりだって、大人の身勝手な理由って…あたしにそんな事言わないでって」
「そりゃ、そうよね」
「やっと再会した幼馴染だもの。約束だって今、果たせそうなのに。貴女も酷な事を言うようになったのね」
「彼を江頭の言いなりにさせないようにするには、それしか方法は無いと思ったのよ。パパの力はもうそんなに及ばない。寧ろ、江頭の権力が伸びてきてるのに…」
泰造はソファーに足を組んで座る。
「そんな中で自分には彼を江頭から守りきる自身が無い、と?」
静香は、コクンと頷いた。再び泰造は溜め息を吐いた。
「何お馬鹿な事を言ってるのかしらこの子は。彼が江頭に屈することなんてありえないわよ。あんなに我の強い子なんだもの。アタシ達は兎も角、周防監督や乾コーチでさえ彼の扱いには出来なかったのよ。そう簡単に江頭の言いなりになるなんて…台風でも直撃しない限り無いわ」
「それは…そうだけど」
「それに、にもそう言わなきゃ。あの子はそう簡単に納得するわけ無いじゃない。貴女のことだから言ってないんでしょう。彼は来年の壮行試合で一軍に勝ったら此処を出て行くつもりだって言っていた事を」
「あの状況で言えるわけ無いじゃない」
「もう……貴女もあの子も変に言わない所があるんだから」
そう言うと、泰造はズボンの尻ポケットから携帯電話を取り出した。頭にクエスチョンマークを浮かべる静香に、聞こえるようにあるボタンを押した。
スピーカーから、ノイズと一緒に聞こえてくる鼻を啜る音。時折、ひっくと聞こえるしゃっくりはずっと泣いていたからだろう。『……し、しずっ、か、さん…ぐすっ』と聞こえてきた声はの声だった。
あとがき
うん、書き直したいですね。なんかめちゃくちゃ。ヒロイン嬢も賢いというか、妙に物分りのいい子になってるんで、この年頃の子って中々分かっては貰えませんよね。普通は(ただ私がそうだっただけなもかもしれませんが)。
(20080224)